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あそう栄作の“みんな、どげえかえ”

静かに、手を合わせました!

  8月15日(火) 終戦記念日、くもり一時にわか雨

 今日は、終戦記念日でした。護国神社の戦没者慰霊祭に戦没者の孫として、お参りしてきました。
 私は、父も母も戦争遺児です。田舎で農業を営んでいた両方の祖父は、赤紙一枚である日突然、戦場へ赴いた様です。
 私の両親は、いずれも小学生の頃の事なので、その後のこと、どこで、どの様な戦死だったのか?など、生きることに精いっぱいで、殆ど解らず仕舞いだったようです。その父も早逝し、記録として残されている戦没場所の記述も正確性に欠き、未だに、我々孫にも伝えられていません。
 祖父は昭和20年3月10日にフィリピン ルソン島 マウンテン州 キャンプ2で戦病死、母方の祖父は昭和20年8月23日に中華民国 三県省 金県にて戦病死と、護国神社に保管されている戦没者名簿に記載されています。しかし、母方の祖父の三県省は山西省なのか?など、実際の現在の何処なのか?など、よくわかりません。早速、調べてみたいと思います。
 大分県だけでも、44,456柱の栄霊が祀られている訳ですから、その数だけのそれぞれの人生物語があったのだろうと思います。
また、戦争相手国兵士や現地で巻き込まれて亡くなられた方にもそれぞれの人生があった訳です。
 そのことを、思う時、残された遺族の一人として、祖父のことを想い、静かに手を合わせました。
 戦後72年目を迎えた今、もう一度、祖父のことについて、調べ、私の子供たちへ伝えていくことが私の役割ではないかと考え始めました。
 今日の戦没者追悼式の後、戦没者の孫やひ孫が残って、交流をする機会が設けられました。これまでは、私達が、戦争のことについて、聞かされる立場でしたが、遺族の皆さんが高齢になった今、私達が遺族として、次の世代へ戦争のことを伝えて行く番となりました。
 今の時代、この日ばかりに賛成反対と喧騒を極める報道がありますが、今でも、遺族は、護国神社や靖国神社で毎日行われている命日祭に誰かが必ず、お参りされているのです。普段は、静かに手を合わせることが出来るのです。今日8月15日が命日の方もいらっしゃいます。今日も10時から護国神社では、静かに普段通りの命日祭が執り行われていました。我々が、忘れてならないのは、その普段通りの事なのです。
 その普段の何事もなかった人生を赤紙一枚によって、変えてしまったことが問題なのです。
 終戦記念日には、国の指導的政治家や軍幹部などが脚光を浴びた報道がなされていますが、赤紙一枚で徴兵された農家の一兵卒やその家族の人生に触れられることはめったにありません。その後の時代でも、集団就職によって、大都会に労働力を集結させ、過疎化が進行し、地方の担い手不足が深刻となると、Uターン、Iターンと言って、移住促進を進めるやり方は、時代が移り変わった今の世も、指導的立場の超エリートと呼ばれる方々の意識改革は出来ていないのかもしれません?日本人の「失敗の本質」を考えさせられた一日でした。

プロフィール

Eisaku Aso

昭和37年1月20日生
大分県議会議員
(第73代大分県議会議長)
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