7月28日(木) 菜っ葉の日
真夏なのに、朝からしとしとじめじめ小雨。いったん止んで、青空が見えたと思ったら、また突然の雨の繰り返し、台風の影響?
さて、今日は、内外情勢調査会で、元トヨタ自動車工業副社長・元名古屋商工会議所副会頭だった栗岡莞爾さんの『日本全国の経済活性化と高速道路の定額料金化』の話を聴いてきた。
『地域格差の正体』著:栗岡莞爾、近藤宙時、出版:クロスメディア・パブリッシングを以前に読んでいたので、興味津々で聞いてきた。
地方創生の取り組みをどこの自治体もしているものの、結局、移動や物流コストが厚い壁になる現実。そこに、高速料金の定額制を提言されるお二人が今日は来県された。私は、高速道路も鉄道も、人口減少が進む狭い国土の我が国において、従来の距離料金制を脱却して、定額制に発想を変えることの意義は大きいと思っている。
本県の場合、未だに高速道路の完全4車線化の促進期成会を来週の月曜日にも開催する運びとなっている中で、建設要望と定額化をのどちらを優先させるのか?と、国交省から言われそうだが、地方にとっては両方優先してほしい課題である。特に、大都市・大消費圏域から離れている九州では深刻な問題だ。
今日は、講演会終了後、関係当事者と共に、意見交換させて頂き、次なる一手の具体的作戦も頭に浮かんできた。
早速、行動に着手だ!
7月27日(水) スイカの日
夏の空が広がり、暑い日が続いている。今日はスイカの日だ。
一昨日の夜、一人暮らしの母から、今年は草の伸びが早くて、畑も家の周りも草茫々よ!と、草刈りの催促の電話があった。
今年は、例年より早い4月から毎月1~2回、草刈りを頻繁にして綺麗に管理していたのだが、還暦記念の富士山登山の為、この一か月ほど、ほったらかしだった。登山後も、高齢の母に気づかないうちにコロナを持ち帰っては大変だと思い、しばらく、帰っていないのだ。母からは、畑に植えた小玉スイカや甜瓜も実っているからと報告もあった。
参議院議員選挙の投開票日が83歳の誕生日だった母、その日はバタバタしていて、その週の水曜日に仕事が休みだったカミさんと一緒に、母の行きたいところに3人でドライブがてらお祝いのランチなど、親不孝息子が、社会人になって以降、人生で初めて母と丸々一日を一緒に過ごした。月末には、草刈りの時間が取れそうだ。
さて、ここに来て、第7波が来ている。県内で一日の感染者数が2,000人越え、高齢者80歳代以上の感染確認も200人越え、中等症や重症者の存在も報じられると、母との接し方も考えさせられる。やっと、親不孝息子が親孝行しようとしているのに。そこで、さっそく、友人が開発した検査キッドを大量に買い込んできて、実家に帰る前に毎回、検査できるよう準備した。
ところで、昨日は、ある患者さん家族会から陳情をお受けした。
今から10年ほど前に、『知的障がい者の長男を絞殺、福祉関係者らに波紋、受け入れ施設整備課題に』という記事が取り上げられたことを記憶されておられる方もあると思う。その時だけは、注目を集めたのだが、その後、改善の進展がなく、他都道府県に比べても、改善が遅れている。
そこではじめて、報道での『知的障がい者』というひとくくりの表現の背景にあった難病患者であった事実やその受け入れ先医療機関がないことなど深層を知ることとなった。その後、福祉関係行政当局への要望はしていたが、本質的には医療政策の問題が大きかった。しかし、そこには触れずじまいだったままの様だ。当時は、その当事者や関係者の個人情報保護の観点もあったのかもしれないが、当時の大分地方裁判所での被告人弁護要旨を入手して、涙した。
この弁論要旨について、もっと多くの関係者に知らされていたなら『人の尊厳』について、一人一人が、社会が、問題認識をもって、医療従事者を含めて、もっと早くに解決・改善するように詰めていただろうと思う反面、政治に携わるものとして、その無知を恥じ、反省させられた。
早速、福祉関係県所管部局と共に医療研究機関を含めた医療界への対応協力依頼に着手した。一歩前進である。
この時の涙した弁論要旨に記された弁護士のひとりが、徳田靖之先生だった。
私が市議の時、地元地域で発生したある案件で、根本的な問題についてご指導いただき、完全解決に導いていただいた信頼・尊敬の方だ。
先日、ハンセン病、エイズ、肝炎等の感染症と闘い続けた先生が、『新型コロナウイルスの感染拡大によって、感染者に対する差別と排除の嵐が、繰り返された痛恨の過ちが、またも繰り返されている。』として、警鐘を鳴らすために、書き下ろされた『感染症と差別』の本を読んだばかりだ。
その記述の中に、『1998年に提起された らい予防法違憲国家賠償訴訟は、日本のハンセン病隔離政策を弾劾し、その後の国のハンセン病政策を全面的に転換させた歴史的な意義を有するものであったが、その意義を半減させたのは、その提起が少なくとも20年は遅すぎた。~入所者の年齢は70代後半に達し、社会復帰も家族関係の回復も極めて困難になっていた。』、『人権擁護を職業的な使命としているはずの私たち弁護士の怠慢による問題提起の致命的な遅れの、その責任は償いようがないほど大きい』と記されていた。間に合うことが重要とする職業倫理感、その姿勢こそが、大事なことだと思う。~今だけ、金だけ、自分だけ、が良ければ、それでいいといった現在の社会風潮こそを許してはいけない、その最たるものが、政治家に求められていると再認識させられた。
今こそ、多くの皆様はもちろん、政治や行政に携わる皆様には、是非、読んで欲しい一冊。
7月19日(火) 雨
その週末連休に、友人グループで富士山に登ってきた。
初日、羽田空港から少人数グループで小型貸し切りバスで鎌倉の小町通を散策、鶴岡八幡宮、苔寺で有名な妙法寺から長谷寺・鎌倉の大仏に行き、途中江ノ電に乗って、江の島の江島神社の階段を上ったりして体を慣らしつつ登山の準備をした。この日も結構歩いた。富士山の見える三島のホテルに泊まり、壮行会をした。私は、2週間、禁酒を続けており、この日も飲まなかった。
2日目、8時にホテルを出発、富士山5合目登山口に到着、1時間ほど高度慣らしで過ごし、10時半に登山開始、ガイドさんの案内でゆっくり高山病にならないように歩を進めて、夕方の4時ごろ本8合目の山小屋に予定通り到着、5時前にハンバーグカレーの夕食を取り、午後6時ごろには耳栓とアイマスクをして仮眠。疲れていたので鼾をかいて少し眠れた。
3日目、真夜中の2時前に起床、山小屋に荷物を置いて、2時半からヘットランプを頼りに登頂開始、風もあまりなく、寒さもフリースにレインコートで十分だった。4時ごろ、吉田口の山頂に到達、ご来光を待ったが、あいにくの曇りの為、雲の隙間からかすかな光を見ただけとなった。その後、お鉢巡りをして5時ごろ剣が峰日本最高峰3776mに到達、記念撮影などして、下山開始。
7時ごろ本八合目の泊まった山小屋で荷物をピックアップ、山を下り始めた。
登るときには、気づかなかったが、降りるときにその急こう配にびっくりした。よく登ってきたものだと我ながら感動した。
下山も順調だったのだが、のこり数キロのころから急に足腰に異変が生じた。下りに、足の筋肉が踏ん張れなくなった。おまけに、コルセットをがちがちにまき続けていたのだが、脊柱管狭窄症とすべり症が出たのか、腰が抜ける状態で、少し歩いては休むということを続けた。最後にはザックをガイドさんが持ってくれて、グループの仲間の励ましとサポートで何とか、予定時間の12時頃5合目まで帰り着くことができた。還暦記念の登山は、友人たちのお誘いとそのグループの皆さんと登山ガイドの方のおかげで成し遂げることができた。感謝するばかり。感動の『人生に一度の富士登山』となった。
今回感じたのは、人生も山登りも登りより下りが難しいということだった。還暦からの人生を考える上で、最高の機会・節目となった。
降りて来てからは、紅富士の湯で温泉に浸かり、横浜に移動、中華街で登頂成功慰労会を行った。
最終日には、横浜の中華街を散策、山下公園をプラプラ、ガンダムも見て、赤レンガパーク横でやっていたカレーフェスタを覗き、日清食品のカップヌードルミュージアムを見学。ここでインスタントラーメンの父安藤百福発明記念館で、創造的思考、最後まであきらめない執念を学んできた。富士登山後の最高のメッセージを頂いた。
7月13日(水) 曇り
還暦になった親不孝者が、初めて83歳になった母の誕生日にカミさんと一緒に3人でドライブ、昼食を共にして祝った。
7月10日が誕生日の母、3年に一度は参議院議員選挙もあるし、公務やら何やらで、身内のことなんて考える余裕もなかった。
一方で、母は自身の父親を赤紙でお国にとられ戦死、自身の伴侶である私の父親も同じ境遇で,早くに病魔に襲われ、5年間の闘病生活の後、早逝.という波乱万丈・苦労の連続の人生を送っている。母30代半ばの時。
そんな母に育てられた私はというと、25歳の時から政治の世界に入り、以来365日気の休まる日のない日々を送ってきた。長男にもかかわらず、農家の実家を出て、家のことは母親任せ。そんな親不孝者の息子もさすがに、入退院を繰り返す母のことがここ数年、心配になってきた。母は母で、高齢になり終活を始めた。
そんなこともあって、ここ数年で、戦没者の遺族家庭に多い未相続の問題など、父もやりかけてとん挫していた宿題をここ数年ですべて解決しようと取り組み始めた。我が家も例外ではなく、数世代にわたって、田畑山などが未相続だった。
当初は、司法書士の先生にお願いしたが、百数十人にも及ぶ相続関係者を調べるだけでも大変な作業となり、弁護士法人にお願いして、数年がかりで手続きを終えることができた。今は親戚付き合いのない知らない関係者も多い中、完了できたのもその方々の協力のおかげ。感謝するばかりだ。田舎の利用価値が限られた土地ばかりだから評価額の数倍もの経費が掛かったが、戦没者の遺族への助成制度も支援も調べたが何もなかった。日本全国に同じように困っている方が、きっと多いのだろう。そこに過疎地域の根本的な課題が隠れているような気もする。
さて、今年の母の誕生日も参議院議員選挙の投開票日となり、母の誕生日祝いどころではなかった。
そこで、3日後の水曜日にカミさんも仕事が休みだったので、その日に合わせて3人でドライブに行った。
免許証を返納した母が自分で行けなくなった行きたいところへ行くことにした。
まずは、大分川ダム(七瀬ダム)へ。ここは、私がダムの定礎式でくす玉を割りと同時に万歳をしたこともあって、私にとっても縁のある地だった。そこから、若妻の店で、買い物。それから、久住ワイナリーで、ノンアルコールスパークリングワインで83歳になった母に乾杯。高原の瑞々しい野菜の料理にパスタ、ピザ、鶏肉料理、デザートで祝った。母の旺盛な食欲に、ちょっと安心。
食後は、3人で一緒にくじゅう連山をバックに記念撮影、山並みハイウェイ経由で長者原へ。途中、牧ノ戸峠に立ち寄り。
飯田高原では、高炭酸泉の牧場の温泉にゆっくり浸かってさっぱりして帰った。実家への帰宅後、若妻の店で調達した総菜で3人で夕ご飯。
母にとっては、父亡きあと、化粧品の販社責任者として、我々子どもを育てる為に自分で運転して必死にセールスに回った昔のことを思い出し、懐かしかったようだ。農家との兼業での女手一つでの苦労は並大抵のことではなかったはずだ。
親不孝者の息子が人生初の母親と一緒に遊んだ一日となった。
これも安倍元総理の母親洋子様の無念を想う時、今のこの一瞬の時を大事にすることを教えて頂いたような気がしたからであった。
83歳の母、まだまだ元気にいて欲しい。その為に、私も人のお役に立ちつつ、母や家族のことも忘れずに頑張らなければならないと、改めて心に誓った一日となった。
7月11日(月) 養殖真珠発明記念日、晴れ
昨日は、母の83回目の誕生日だった。
昨日は、参議院議員選挙投票日だったので、お祝いは改めてするようにして、電話でお祝いを伝えた。
自民党の大勝となったが、これは安倍晋三元総理の弔い合戦で、負けるはずがなかった。歴史が示している。
また、母を先日期日前投票に連れて行った際に、『私たち過疎地域で暮らす年金生活者は、寄らば大樹の陰でひっそり暮らすにも政権党を頼るしかないのよ!』と言っていた。考えることを許すこともできないほど、深刻な実態であることを肝に銘じておかなければならない。また、安部晋三元総理の凶弾テロ事件についても『何があっても、母親より先に死んではダメ!良いな。』の言葉に、晋三先生のお母さんや昭恵婦人を想い、心を痛めた。本当にショッキングだった。
マックスウェーバーが、政治は所詮、暴力であり権力闘争に過ぎないと断言した上で、だからこそ、倫理が求められるとも言っている。今、求められている政治倫理、そこを追求する改革も安定の表裏一体で求められている。
大分県選挙区では、政権に県民の声を届ける議席が奪還出来た。母の言う寄らば大樹の陰だ。
一方で、投票率と棄権率が拮抗している大分一区の開票結果にも注視した。
批判票が分散して、批判票の受け皿がなかったことが、幸いしているようだ。
大分市の今回の結果と昨秋の衆議院選結果を比較しても自公連立政権下での相互協力体制から見ても、自民党の支持基盤が盤石でないことが見えてくる。来年の統一地方選挙・知事・各市町村長・県議・市町村議会議員選挙について、この結果が弾みとなればいいのだろう。
投票率というより、棄権率が危険率にならないように、政治家である以上、足で稼いで有権者の声を聴いて回るしかない。
7月 7日(木) 七夕 曇りのち晴れ
第26回参議院議員選挙も終盤に入った。
新聞各紙やマスコミ報道もいろいろだ。
地元紙によると、電話による調査らしい。大分県でのサンプル数は、812人、少なく感じた。
また、固定電話となると傾向にも偏りがでる。議席の予測に関して、選挙区や候補者の特性に応じた予測式を準備したという。
終わってから、その具体的内容は、知りたいものだ。
問題は、各記者の取材も加味しているらしいが、そこが一番疑わしい?
かつては、夜討ち朝駆けで現場取材に記者魂を込めた肌身感覚の積み上げがあったが、最近は働き方改革でAIにお任せの様かな?果たしてどうなるのか?
7月4日(火) 梨の日、曇り
時の移りは早く、夏至から半夏生も過ぎた。
この時期、豪雨災害に見舞われる年が増えており、今日も台風の襲来に備える一日となっている。
雨予想だったが、曇っているが降っていないのが不気味だ。
さて、第2回定例県議会は、6月29日水曜日に閉会した。
私が注目したのは、ドローンの機体認証制度等が年内に創設され、有人地帯での補助者なし、目視外での飛行が解禁されるという話。つまり、ドローンショーなども可能となる訳で、県産業科学技術センターに配備されているドローンアナライザーの存在感発揮について、その具体策について特に着目中。
また、ツーリズム大分の使途不明金問題について、県の委託先として多額の委託金や補助金である公金が注入されていることを鑑みるとき、委託先解除や委託事業及び補助事業の凍結も視野に入れることも不可欠なのだが、230社を超える会員企業の総会が6月30日に開催されたが、秘密会で何も公表されいないことを危惧している。警察の捜査が入っているようだが、国税局の査察部の視点からも捜査しなければ、事件の解明があの時のようにできないのだろうか?これも注視案件。
さて、7月1日には、地元の田ノ浦ビーチで梅雨明けした夏の青空の下で海水浴場開きが行われた。海のスポーツ、カヤックやシュノーケリング、サップなど、マリンレジャーと山登りを合わせた新たなアウトレジャースポットづくりの企画がひそかに進行中だ。セラピーロードで海抜ゼロmから628mの高崎山山頂までをマリンと山の一体的なスポーツのメッカにしようと動き出している。楽しみだ。
そんな楽しみなことも増えているが、私の心と身体は長年の不摂生がたたり、絶不調、歩くのがやっとだ。
特に脊柱管狭窄症がぶり返し、体重を落としつつあるものの、すべてのバランスを崩してしまっている。
それが理由ではないのだろうが、AUの通信障害も長引いた。こうした時の一人ぐらいの母と連絡がつかないとなると行くしかなくなるのだ。
こうした環境や持病とは付き合って生きていくしかなさそうだ。もうしばらく笑顔になるには、時間が必要だ。
せめて、田ノ浦ビーチ及び人工島の構想についての策定委員として提言した時の夢、ある有名ミュージシャンを人工島に呼んでコンサーを実現するまでは、がんばれ!と言われ続けている。サンフラワーや瀬戸内海で稼働率10パーセントほどしかないという全てのクルーザーを人工島の周りに集めて、それに乗って、はじけるイベントの夢を先日も語り合った。
国民文化祭も食育全国大会も、ラグビーW杯もそのレガシーを凝縮したイベントを支えてきた裏方の皆様の笑顔をもう一度見たい!そんな覚悟を問われる新たな7月からのグローバル年度始まりの時期となった。
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